どれだけ勉強して、仕事で結果を出しても、自分より仕事ができる人の前だと自信がなくなって話が出来なくなってしまいます。
堂々と話せる人はどうしてそんなに自信が持てるのでしょうか。羨ましくて仕方ありません。
(30歳/女性)
ご質問誠に有難うございます。
ご質問者様は街でナンパをされたことが御座いますでしょうか。
私はよく池袋で原稿を書いているのですが、池袋のサンシャイン通りではナンパをしている男性をよく見かけます。
ナンパの善悪について語るつもりは今回御座いませんが、彼らは一体なぜ何十何百もの女性に声をかけることが出来るのでしょうか?
街中で知らない女性に「ちょっとお茶しない?」と声をかけることは誰にでも出来ることでは御座いません。
ナンパをしようと息込んだものの、結局女性に声をかけることすら出来ない方のことをナンパ界隈では「地蔵」と呼びます。
こんな言葉が作られてしまうほど、地蔵になってしまう男性が多いことの証拠でしょう。
かく言う私も地蔵であった男で御座います。大学生の頃にナンパを試みた経験が御座いますが、結局地蔵どまりで御座いました。
何度、勇気を振り絞っても声をかけることが出来なかったのです。
先ほどお伝えした通り今回はナンパの善悪については語りません。
ですが少なくとも「街中で女性に声をかける」という能力において彼らが私よりも優れているということは疑いの余地がないでしょう。
さて、私は男性なのでこれまでの人生でナンパをされたことは御座いませんが、街中で声をかけられたことは何度も何度も御座います。
居酒屋の勧誘、謎のアンケート、ラッセンの絵を買わないかと声をかけられたことも御座いました。
しかしその中でも特に鮮明に覚えているのは小田原に旅行をした時のことで御座います。
小田原城から小田原駅に向かっているところで、物凄く笑顔が不気味な男性から声をかけられました。皆様のご想像通り、宗教勧誘で御座います。
あまりにも笑顔が不気味だったので、逆に興味が出て彼の話を聞きましたが、その内容は謎が多く、全くもって入信する気にはなれなかったのをよく覚えています。
しかし、その時にある種の恐怖を覚えました。
「この人はこれほど支離滅裂な理論であるにもかかわらず、街中で平然と人に声をかけることが出来る」
私は1度も街中で女性に声をかけることが出来なかったのです。どれほど勇気を振り絞っても、女性に声をかけることが出来ませんした。
ですが彼は平然と私に声をかけることが出来た。しかも相手は男。逆上されて殴られる可能性が女性の数倍はあるでしょう。
それなのに彼は平然と私に声をかけることが出来たのです。
ナンパも世間的には眉を顰められる行為で御座いますが、もしも「ナンパ」か「宗教勧誘」のどちらかをやらなければならない状況であったなら、私はまだナンパを選ぶでしょう。
ナンパなら「イキった男」程度の評価で済みますが、現代日本において「宗教勧誘」をしたら眉を顰められる程度では到底済みません。
知人に知られたら、まず間違いなく距離を取られてしまうことでしょう。それほどの行為を彼は簡単にやってのけたのです。
おそらく彼は「自信がある人」だったのでしょう。
世の中には様々な宗教が御座いますが、そのほとんどは布教を極めて重要に捉えております。キリスト教の宣教師などはその典型でしょう。
現代のキリスト教は一部の宗派を除いてそこまで勧誘に積極的では御座いませんが、昔は地球の反対側まで一生懸命布教をしていたのです。
さて、キリスト教に限った話では御座いませんが宗教において勧誘が極めて重要な要素であることは間違い御座いません。
それでは信者は一体どのようなモチベーションで勧誘をしているのでしょうか?
もちろん宗教ごとに多少の差は御座いますが、多くの宗教のおいて勧誘は「宗教を知らない愚かな人間を救済する」という正義の行動として捉えられております。
真理を知らない人が身近にいるのに彼らに真理を伝えないのは人間として間違っている、というような理屈が多いでしょう。
小田原で私に宗教勧誘をした男性の宗教もまたこのような教義で、勧誘を行っています。彼らにとって勧誘は絶対的な正義なのです。
私は彼の勧誘を断りましたが、彼の目線で見れば「愚かな男が真理を拒んだ」としか映りません。
彼にとって、勧誘は絶対的な正義。もしも彼の勧誘が失敗したのなら、それは勧誘された側に問題があるのです。
だからこそ彼は何の恐れもなく勧誘をすることが出来たのでしょう。
私はこういった彼のような状態を「自信がある状態」であると考えています。
何かを盲信して盲目的になる状態。自分の思考や理論、そして正義を疑わなくなってしまうのです。
ナンパの話に戻りましょう。
女性に声をかけることが出来ないまま終わる地蔵男性をよそ目に、一部の男性は街中で女性に声をかけています。
彼らが女性に声をかけることが出来る理由は大きく3つに分けられます。
謎の理屈で「ナンパは正義の行為」と信じている狂人で御座います。
最近、某大学のミスターたちが立て続けに逮捕されましたが、ああいった方々や一部の何ちゃら工学的な方々がこれに該当するでしょう。
彼らは「俺が声をかけるのは正義である」という自信があるので、女性に声をかけることを躊躇いません。
価値観は人それぞれでは御座いますが、まぁ概ねクズと呼ばれる男性でしょう。
「断られたらどうしよう。」
「ナンパしている姿を誰かに見られた恥ずかしい」
「キモいって言われたらどうしよう」
彼らはそんな不安を抱えたまま、女性に声をかけております。彼らには自信など存在致しません。
吹けば飛ぶような心理状態の中、勇気だけを支えにして彼らは声をかけているのです。
「不幸な人間に神様の教えを伝えなくてはいけない!」という使命感に燃えている小田原の男性とは違い、彼らは不安に押しつぶされそうになりながら、女性に声をかけるのです。
そんな彼らを奮い立たせているのは、自信ではなく勇気で御座います。
勇気によって失敗を積み重ねた方が辿り着く境地で御座います。
彼らは自分の行動を正義とも思っていませんし、絶対に上手くいくとも思っていないものの、失敗を大して恐れておりません。
先天的な性格で楽観的な方もいらっしゃいますが、多くの場合は「これまでの経験」によって楽観的になっていると言えるでしょう。
これまでに何度も何度も失敗したものの、その失敗は大した痛手にならなかった。
だから仮に失敗しても平気と考えることが出来るのです。
ご質問者様は「失敗」を極端に恐れていることでしょう。
もしも失敗したら、それは取り返しのつかないことになってしまうのではないか。そんな不安をお持ちのことと思います。
しかし失敗を恐れなくなるためには「失敗しても大したことはない」と実際に経験しなくてはなりません。
どれほど口で説明しても実際に経験しなくては失敗を楽観的に捉えることは出来ないことでしょう。
先ほど私は「ナンパをしたことがない」と申しましたが、実はあれは半分は正しく半分は嘘で御座います。
確かに道でナンパをしたことは御座いませんが、バーなどでは何回かナンパをしたことがあるのです。
最初のナンパはゲームセンターで御座いました。
ナンパをするつもりがあったわけではなく、当時稼働し始めた「初音ミクProject Diva」の列に並んでいる時に前後の女性がカードを持っていることに気が付いたのです。
ほぼ無意識に「それ無いとアレ(ミク)出来ないんですか?」と聞いたことをきっかけにナンパのような形になってしまいました。
大学卒業後はナンパをしなくなりましたが、おそらく私は今でもあのような形ならナンパをすることが出来るでしょう。
しかし、失敗に楽観的にはなれません。失敗したらどうしようと不安になりながらも声をかけられる程度に過ぎないのです。
何故ならば、私は失敗をしたことがないから。
無論、毎回連絡先を聞き出すことに成功したわけではございませんが、無視をされたり、死ねと言われるような失敗は御座いません。
自分で言うのもおこがましいですが、多分才能があったのだと思います。大成功とまでは言わないものの、失敗がない。
だからこそ私は未だに勇気を振り絞らないと女性に声をかけることが出来ないのでしょう。
ナンパなどと比較するのも失礼な話では御座いますが、おそらくご質問者様もまたこのような状況なのではないでしょうか?
人前で話す時、ご自身で納得出来るような振る舞いは出来ていなかったかもしれません。ですが、少なくとも失敗はしていなかったのです。
ご質問者様は「失敗した」と感じていらっしゃるかも知れませんが、客観的にはそれが失敗ではなかったのです。
100点満点とは言いませんが及第点は取れていた。だからこそご質問者様は「失敗経験」が足りず、未だに不安で押し潰されそうなってしまうのでしょう。
どうかご安心下さいませ。ご質問者様はすでにある程度、堂々と喋ることが出来ています。
そもそも、もしもご質問者様が本当に人前で喋れなくなってしまうのであれば、そろそろいい加減に上司もご質問者様に何かしらの処罰をしているはずでしょう。
Written by ラブホスタッフ 上野