子供が欲しくてもできない人もいれば、子供が欲しくなくても1回のエッチでできる人もいます。あるいは子供が欲しくないからという理由で産まない人もいます。
子供をめぐって、わたしたちオトナはしばしばいろんな可能性に思いをめぐらせますが、そもそも子供ってなんなのでしょうか?
子供ってなんなのでしょうか? というのはなにも、バスの中で走り回るアホな子を非難しているわけではありません。わたしたちオトナが、「欲しいからつくる」「欲しくないからつくらない」というだけの生き物が子供なのでしょうか、ということです。
もちろん、欲しくない人には、欲しくない人なりの理由があるわけで、その理由について、他人がとやかく言うことはなにもないものです。欲しくないと思っている人の人生は、その人の人生であって、そこに他人が首をつっこむ話ではない。
ただ、先日、ある神社の宮司さんがお書きになった本を読みながら、子供って、わたしたちオトナが「欲しい・欲しくない」という思いをはるかに超えている生き物ではないか、と思いました。
その宮司さんは、著書の中で「命は誰のもの?」と、わたしたちに問いかけます。
命って、誰のものなのでしょうか?
自分のもの……当然、こういう答えも出てくるでしょう。「わたしの命はわたしのもの」だと。ではお聞きしますが、あなたの心臓はあなたの意思で動き続けているわけではないですよね。あなたの意思を超えたところで何者かが動かしている、これが心臓の実態でしょう。
あるいは親から授かったものが命だと答える人もいるかもしれませんね。たしかにそのとおりです。
では、その親は、そのまた親から命を授かっている、その親はそのまた親から命を授かっている……と、延々と過去をたぐり寄せたら、どこにたどり着くのでしょうか? 縄文時代とかそのずっと先の祖先にたどり着くのでしょうか?
宮司さんはたとえば、「命は誰のものでもない」と説きます。誰のものでもなく、たまたまあなたがお借りしているものが、あなたの命であると言います。だから誰のものでもない。しいて言えば、神様からお借りしているものだから神様のものかもしれません。
この場合の神様とは、ある特定の宗教のことではなく(神社は宗教ではない)、目に見えないなんらかの意思、これを神様と仮に呼んでいる(ほかに適当な言葉がないから)、ということです。
命は誰のものでもないと言われても、ピンとこない人も多いかと思います。でも、「脈々と続いてきたわたしの命を、わたしの代で終わらせてもいいのか?」というリアルな考えを持つ人はいるかもしれませんね。
終わらせてもいいのか?
たとえば日本では応仁の乱のときに、びっくりするくらいたくさんの死者が出たといいます。あるいは、太平洋戦争が終わって、満州から引き揚げてくる途中に、餓死した人も相当数いたそうです。餓死を選ぶのか、シベリアに抑留されて凍死や過労死を選ぶのか、究極の二択をくぐりぬけて受け継がれた命をお持ちの人も、この項をお読みの人の中にいるのかもしれません。
命って、誰のものなのでしょうか。もしもあなたが妊娠可能な身体をお持ちなのであれば、あなたの意思で産まないと決めた命は、どこに行くのでしょうか。
今の日本は、出産する女性や、生まれてきた子供を粗末に扱うので(育児休暇が取れない、待機児童が多い、そのわりにろくでもないことに税金を使いたがる政治家が多いなど)、「子供、欲しくない」と思う女性がいるのは、十分理解できます。それに、繰り返しになりますが、産むも産まないも、自由です。
がしかし、命は誰のもの?
偶然手にした本によって、この問いを知ってしまってからというもの、「子供が欲しくない」という女性の意見を、素直に聞けなくなっています。ぼくの年齢も関係あるのかもしれませんが。
Written by ひとみしょう