誰もが知っているこの世のウソに「人はみな平等である」ということがあります。人なんて、平等であるはずがない。
飲み会や合コンに行くと、さっさとイケメンと仲良くなって、連絡先を交換しておいしい思いができる女子もいれば、何回飲み会に参加しても、ずっと彼氏ができないままの女子もいます。
この理不尽極まりない事実の、どこが平等なのだろう?
もっとも、どこに行ってもイケメンとさっと仲良くなれる女子は、陰で努力をしている……だから努力という観点から見ると、人はみな平等なのかもしれません。
努力の方向をまちがわない限りにおいて。
たとえば、話が飛ぶように聞こえるかもしれませんが……駅でお弁当を買うとき……新幹線でちょっと遠出をするとき、駅弁を買いますよね?
駅の売店には、いろんなお弁当が売られています。
しゅうまい弁当とか、牛肉のしぐれ煮がいっぱい入ったお弁当とか、幕の内弁当とか、いろんなお弁当があります。
幕の内弁当は、おいしいものがいろいろと入っている、いわゆる優等生的なお弁当ですが、ほかのお弁当より売り上げが良くないということがあるそうです。
幕の内弁当だっておいしい。でも、「最後のひとり」として、選ばれづらい……こういうことかもしれません。
つまり、「あたし、誰にでも合せられますぅ~」では最後のひとりに選ばれないということなのかもしれない。
そういう優等生的な女子よりも、ほかになにもできないけど、あたしにはこれができるというものを持っている女子のほうが、選ばれやすいものです。
とくに若いうちは、これといった特技を持たない女子のほうが多いでしょう。特技どころか、自分がなにをしたいのか、なにが好きなのかが、よく分かっていない人だっていっぱいいると思います。
人生って、本当は、なんでもいいので、「これは」と思えるようなことを持っておいたほうが生きていきやすいものですが、そういうことを誰も教えないから、成人したのちに「あたしはなにをしたいのだろう」と悩む人がいっぱい出てきます。
本当は、寝食を忘れてでもそういうものを探さないと、流されるままに生きるしかなくなるわけですが、誰もそういうことを言わないので、オトナになってから探し、結局見つからず、ひいては幕の内弁当みたいな人格になって、挙句、最後のひとりとして選ばれず、恋愛ってどうするんだっけ? となる。
「これは」というものがまだ見つかっていない人は、「なんかできる」「あたしはなにかを持っている」と漠然と思うだけでもOKでしょう。
こういう根拠のない自信のようなものが、そのあとの自分の人生を決定づけることもよくあることだからです。
気になっている男子に「選ばれる」存在になろうと思えば、根拠のない自信を持ち、幕の内弁当から卒業することが大切なのかもしれません。