さて今回は、彼は運命の人かどうかを見極める方法について、一緒に見ていこうと思います。
はじめて会った気がしない人のことを「運命の人」と定義する人もいます。一緒にいて心地いい人のことを「運命の人」と定義する人もいます。1日の最初に声を聞きたいと思った相手が運命の人だと主張する人もいます。
「彼が運命の人かどうかを診断する10の項目」なんてものがネット上にあるくらいですから、ほかにもたくさんの定義があります。どれも正解に近いように思います。
でも「運命」とは、そもそも人の力でどうにかできるものではないです。「いや、運命は努力で変えることができる、変えられないのは宿命だ」と言い張る人もいるでしょう。
でもネット上では、わりとPOPに運命という言葉が使われているので、今回は、運命と宿命をごちゃごちゃにして考えることにします。運命と宿命ともに、人為的に動かすことができないもの、と定義します。
そう定義しないで、運命と宿命のちがいとは? というところから話を始めたら、ものすごく長くなるので。
運命が、人の努力で動かすことのできないものであるとすれば、運命の人とは当然のごとく「気がついたらなぜか、いつもそばにいる人」となります。
物理的にそばにいる、あるいは、心のなかでそばにいる、この両方を含めて、「気がついたらなぜか、いつもそばにいる」ということです。
「なぜか」そばにいるのではなく、あなたが頑張ってデートの約束を取り付けることもあるでしょう。誰かに必死になって紹介してもらうこともあるでしょう。
でも、そういういくつかの現実的な手続きを踏んだとしても、その後、気がついたらなぜかいつもそばにいる相手、これが運命の人です。
物理的に会えないケースは……たとえば彼のことが大好きなのに、なかなか会うことができないというケース。物理的にそばにいないから運命の人ではない、ということではありません。
あなたがなにをやっていても、ふと我にかえったら、彼のことを思っている――つまり、いつも彼があなたの心のなかにいる。こういうのも、運命の人、です。
人は自分の力で生きているのではなく、何者かによって生かされています。何者か、というのを、誤解を恐れず大胆に言い切ってしまうなら、神様によって生かされています。
だから運命というものが「効いてくる」のです。生かされているという感覚がなく「わたしはわたしの力で生きている」と思って暮らしていると、運命の人が誰なのか、見えてきません。
それこそ、朝の満員電車で「気がつけばいつもわたしのそばにいる人」が運命の人なのかも、と思ってしまうでしょう。それは「同じ電車に乗っている人」であって、運命の人ではありません。
自分は何者かによって生かされていると思えば、当然のように、心が澄んできます。澄んだ心は目がよくなりますから、「なぜかいつも、ふと気がつくとそばにいる人」のなかで、果たして誰が運命の人なのか、選別できるようになります。
「あなたが」大好きな人に、心を奪われていたのでは、見えてきません。ふとした瞬間に、我欲を捨てたとき、あなたの心に浮かび上がってくる人、つまりあなたの「心」があぶり出し、あなたに見せてくれる人、その人がまさにあなたにとって運命の人なのです。
「その運命の人とわたしは結ばれなかったから、こう定義するのはまちがっている」と主張する人もきっといるでしょう。でもね、それを我欲と言うんですよ。
運命の人と「絶対に」結ばれないと、それは運命の人と呼べないと決めたのは、あなたをはじめ、多くの女子の我欲であり、神様はそう定義していません。だからたとえば、運命の人が天に昇ったあと、その人をずっと思い続けて生きていく人の映画を見て、わたしたちは涙するのです。
Written by ひとみしょう